カンボジアの先人を巡る旅①

プノンペン寺院探訪の第5弾は、プノンペンにおいて最も重要なお寺の一つであるウナロム寺院です。
ウナロム寺院は、観光客が集まる王宮、国立博物館などの近くにあります。
ウナロム寺院の建立は、1443年とのことです。
ウナロム寺院は、私がカンボジアに来て初めて訪問した寺院で、思い出のある寺院です。私がカンボジアで仕事を始める時、尊敬すべき先輩の弁護士に連れてきてもらいました。
※ なお、この記事は、法律とは何も関係はありません。

<本堂>
私が訪問したのは平日の昼過ぎで、ほとんど人はいませんでしたし、建物の中に入ることもできませんでした。
しかし、建物はどれもとても立派です。
本堂が空いていれば、ぜひお参りしたかったです。


<本堂の横には黄金の塔と白銀の塔がそびえたっています>
これらの建物を見ながら、本堂の裏に向かいます。
本堂の裏には、カンボジアで命を落とした2名の日本人のお墓(慰霊碑)があります。

<かつてプノンペンが東洋の真珠と呼ばれていた頃のウナロム寺院の写真>

<本堂の裏のスペースに2名の日本人のお墓(慰霊碑)があります>
その1つが、中田厚仁さんのお墓(慰霊碑)です。私が、最初にウナロム寺院に来たのも、中田厚仁さんのお墓(慰霊碑)にお参りするためでした。

<中田厚仁さんの言葉:「だけれども僕はやる」「この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕は、その誰かになりたい」>
中田厚仁さんは、1992年、国連ボランティアに採用されカンボジアに来ました。国連カンボジア暫定機構(UNTAC)が1993年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するためです。
中田厚仁さんは、クメール・ルージュとカンボジア政府との衝突が激しかったコンポントム州プラサットサンボ郡(世界遺産サンボープレイクック遺跡群のあるところです。)に自ら希望して派遣され、そこで命を落としました。1993年4月8日のことです。25歳でした。
国連で働くことを夢見て、その第一歩をカンボジアの地で歩き出した最中、生涯を終えざるをえなかった。中田厚仁さんのことを想うと涙が流れてきます。
なお、中田厚仁さんが殺害された現場には、アツ小学校・中学校があるとのことで、いつかは訪問してみたいと思います。

<ジャーナリスト石山幸基さんのお墓(慰霊碑)>
もう1つのお墓(慰霊碑)は、ジャーナリストの石山幸基さんのものです。正直にいうと、私は、石山幸基さんのことは知りませんでした。
石山幸基さんは、1970年代、共同通信の記者としてカンボジアに来ました。カンボジアでクメール・ルージュの時代が始まる前、クメール・ルージュの支配地域を取材中に行方不明になったジャーナリストです。クメール・ルージュの時代、つまりカンボジアの内戦の時代にカンボジアで命を落としたジャーナリストとしては、一ノ瀬泰造さんや沢田教一さんが有名ですが、彼ら以外にも何名かのジャーナリストがカンボジアの地で亡くなっていたのです。
以前、プノンペンのリバーサイド地区にFCCというバー(ホテルを併設)がありました。現在は、すでになくなっています。そのバーにつながる階段に1970年代の写真が飾られていました。FCCは、1970年代に外国人記者クラブだった建物にあったので、そのゆかりの写真とのことです。なお、シェムリアップのFCCも有名で、こちらは現在も営業しています。

<ウナロム寺院の裏手から>
かつて「東洋の真珠」と呼ばれたプノンペン。大国の都合によって始められたカンボジア内戦。1975年4月17日、プノンペン陥落。そこから始まる破壊と苦難の日々。そして、国連主導によるカンボジアの再生。
これらは遠い昔のことではありません。
ウナロム寺院もまたクメール・ルージュによって破壊され、その後再建された寺院の一つであり、激動の時代をくぐり抜け、現在の姿になっています。
この激動の時代にカンボジアを訪れて命を落とした2人の日本人のお墓(慰霊碑)に手を合わせるのはいかがでしょうか。
その後、寺院を出ると、灼熱の太陽と真っ青な空のもとにあるトンレサップの雄大な流れを見ることができます。
かつて中田厚仁さんや石山幸基さんが見たであろう景色です。
そして、川沿いの木陰に座り、時折吹く風に心地よさを感じながら、「今につながっている」などと思ったりするのです。
オススメ度 ★★★★★(中田厚仁さんや石山幸基さんを知っている方も、そうでない方も!)
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