プノンペン寺院探訪第6弾は、カンボジアの先人を巡る旅の第2弾として、タン コーサン寺院を紹介したいと思います。
タン コーサン寺院は、プノンペン国際空港の北にありプノンペン市内からはTukTukで1時間ほどで到着します。
このお寺には、高田晴行警視の慰霊碑があるのです。

※ なお、この記事は、法律とは何も関係はありません。

<タン コーサン寺院はとても立派なお寺です>

今回は高田晴行警視の慰霊碑を目指し、本堂の横を進みます

<牛の像を通り過ぎます>

本堂の横の通路を通って、ひたすら奥に向かいます

<本堂の裏手には黄金の仏像があります>

本堂の裏手の黄金の仏像を見つけたら、その左側を奥に進みます
そうすると僧侶の生活スペースが見えてきます。
その手前にあるのが、高田晴行警視の慰霊碑です

<高田晴行警視の慰霊碑です>

高田晴行警視は、岡山県警の警部補(当時)であり、1992年10月14日、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の文民警察官として、カンボジアに派遣されました。元PKO隊員です。高田晴行警部補(当時)は、カンボジア北西部のバンテアイミエンチェイ州(現・オッドーミエンチェイ州)アンピル村に派遣され、1993年5月、クメール・ルージュとみられる身元不明のゲリラの襲撃を受け、命を落としました。33歳でした。

何故、武器を携行できないPKO隊員(文民警察官)が、クメール・ルージュが残るカンボジア北西部のバンテアイミエンチェイ州(現・オッドーミエンチェイ州)へ派遣されることになったのか、私はよく分かりません。
1975年4月17日、クメール・ルージュによりプノンペンが陥落し、その後、1978年になるとベトナムがカンボジアに侵攻を開始し、1979年にはプノンペンが解放され、クメール・ルージュはタイ国境方面へ逃げていきました。
クメール・ルージュの指導者であったポル・ポト(1998年死亡)やタ・モク(1998年本拠地を捨て、1999年タイ国境近くで逮捕、2006年死亡)の最後の本拠地バンテアイミエンチェイ州(現・オッドーミエンチェイ州)アンロンベンだったわけです。そして、アンピルはアンロンべンのすぐ近くに存在します。アンピルに対するクメール・ルージュの影響力は、1993年当時もまだまだ大きかったはずです。また、襲撃場所はまさにアンロンベンの近くだったみたいです。
そのような地域に日本のPKO隊員(文民警察官)が派遣されることになったのは、なぜなのでしょうか

<いろいろな仏像があります>

国際協力とは何なのかを考えさせられる時間になりました。

オススメ度 ★★★★(ぜひ訪問してみてください!

アクセス

〒951−8061 新潟市中央区西堀通四番町816番地6
神野開発ビル302号室
TEL:025ー201ー6249