「以前にもお手紙を差し上げたことがあるのですが覚えていらっしゃるでしょうか」[1]

『民法への招待』の著者である池田眞朗先生が2012年秋に紫綬褒章を受章した際、カンボジア王国の学生2名が池田先生に送った手紙の一節だという。このカンボジア人学生2名は、2008年にカンボジア王立法律経済大学(RULE)の中に開設された在カンボジア日本法教育研究センター(CJLカンボジア)の1期生だった。この2名は、RULEを卒業するとともに、CJLカンボジアの課程を修了し、名古屋大学大学院に進学した。その時、池田先生の受章を知り、お祝いの手紙を書いたのである。

2008年、池田先生の『民法への招待』(第3版補訂版)のクメール語への完全翻訳版が完成した[2]。それと時を同じくして、2007年12月、カンボジア民法[3]は、日本の支援により成立し、その普及のための期間を設け、2011年12月21日に適用開始となった。カンボジアでは、日本のように民法を体系的に解説する基本書は存在しなかったため、『民法への招待』のクメール語版は、カンボジア民法の普及の一助となったのである。『民法への招待』のクメール語版は、RULEやCJLカンボジアなどの教育機関で活用され、多くのカンボジアの法律家が教材として利用してきた。そして、CJLカンボジアでも『民法への招待』のクメール語版を利用し、上記の2名のうち1名が、1期生代表として池田先生にお礼の手紙を書いていたのである。

2019年、国際協力機構(JICA)のカンボジア法整備支援の長期専門家をしていた私は、カンボジア人のテップ・ボパール(Ms. Tep Bophal)弁護士とイブ・ポリー(Mr. Iv Poly)弁護士が主催するContribution of Law[4](COL)で授業をする機会を得た。その際、教科書として使用したのが『民法への招待』のクメール語版である。第1回の授業[5]が終わった後、ボパール弁護士が、私に対し、「『民法への招待』は、学生の頃、読んだことはあるものの、正直、分かりにくかった。今日みたいな授業を学生の頃受けたかった」と言ったのである。その授業の帰り道、トゥクトゥクの中で、私は、通訳をしてくれたチュン・クイエン(Chheourn Kuyeng)[6]さんと、ボパール弁護士が『民法への招待』のクメール語版を分かりにくいと言った理由について話してみた。そうしたところ、『民法への招待』のクメール語への翻訳作業は、カンボジア民法の起草作業と同じ時期に行われていたため、同じ概念でも『民法への招待』とカンボジア民法とで、別々の単語が使用されているものがあることが分かった[7]。これでは、民法のおもしろさが伝わらない。かえって学生が混乱するかもしれない。

これをJJLの桜木和代弁護士に伝えたところ、桜木弁護士が池田先生と話をして、日本の民法が変わることも踏まえ、『民法への招待』(第6版)をもう一度最初からクメール語に翻訳しようということになったのである。この翻訳作業は、名古屋大学大学院で民法を研究していたクイエンさんとヴォン・スレイダエン[8](Vong Sreydaen)さんによって行われ、お二人の尽力により、わずか2年弱で翻訳作業が終了した。そして、2021年12月22日、『民法への招待』(第6版)のクメール語版の出版記念式典を行うことができたのである。出版記念式典においては、『民法への招待』(第6版)の翻訳を担当したクイエンさんとともにリム・リーホン(Lim Lyhong)[9]さんが、通訳を務めた。

このリーホンさんこそ、冒頭の池田先生への手紙を書いたカンボジアの“元”学生の一人[10]である。出版記念式典の中、私は、池田先生の「カンボジア人学生からの手紙」の物語を思い出していた。

リーホンさんたちが池田先生に2回目の手紙を書いてから約10年。リーホンさんたちは、学生から法律家となった。このようにカンボジアの法律家は着実に育って来ているものの、いまだにカンボジア民法の基本書などは存在せず、学習環境は十分とはいえない。今回の『民法への招待』(第6版)クメール語版は、一人でも多くのカンボジア人学生が手にし、民法のおもしろさをクメール語で味わってもらいたい。

私は、今、再び池田先生に手紙を書くカンボジア人学生が現れるのではないかと期待している。そして、そのカンボジア人学生が池田先生と紡ぐ新たな物語を心待ちにしている。


[1] 池田眞朗「カンボジア人学生からの手紙」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/34371?imp=0

[2] 『民法への招待』のクメール語化事業は、日本・カンボジア法律家の会(JJL)により、1998年からスタートした。

[3] カンボジアでは、かつてフランス民法の影響を受けた旧民法が存在していたものの、1970年代半ば以降のポル・ポト政権下で事実上廃止されて以降、市民生活を体系的に規律する法律は存在しなかった。そのため、国際協力機構(JICA)は、1999年から、カンボジア民法の起草支援を行なって来た。

[4] Contribution of Lawについては、JICA長期派遣専門家であった内山淳(検察官)の「カンボジアの司法〜Contribution of Law〜」(ICD NEWS第76号2018年9月号、https://www.moj.go.jp/content/001278996.pdf)で詳しく紹介されている。

[5] 第1回の授業は、『民法への招待』の「第1章 ガイダンス」部分を基に授業を行った。

[6] CJLカンボジアの2期生で、JICAカンボジア法整備支援プロジェクトのスタッフを経て、名古屋大学大学院に留学し、現在も同プロジェクトのスタッフとして働いている。

[7] そして、「今日みたいな授業を学生の頃受けたかった」というボパール弁護士のお褒めの言葉は、クイエンさんの通訳のおかげということも分かった。つまり、カンボジア民法の単語に精通するクイエンさんが、『民法への招待』のクメール語版とカンボジア民法との橋渡しをすることで、『民法への招待』の内容がカンボジア人学生に伝わったのである。

[8] CJLカンボジアの2期生で、名古屋大学大学院を修了し、現在は日系の法律事務所でスタッフとして働いている。

[9] CJLカンボジアの1期生で、名古屋大学大学院を修了し、現在はカンボジアの大学で講師をしている。

[10] もう一人の“元”学生であるジア・シュウマイ(Chea Seavmey)さんも、名古屋大学大学院を修了し、カンボジア国土管理・都市計画・建設省で働くとともに、大学の講師をしている。

〒951−8068 新潟市中央区上大川前通4番町112番地2階B号室
TEL:025−201−6249